離婚して子供を連れてニューヨークから帰ったわたしは生活のメドがたってこころに余裕ができると、東京の(入試がなくてお金を出せば通える)大学の一般人コースに通い始めた。
黒磯駅から東京までだいたい4時間かかる鈍行(各駅停車)に乗って東京の早稲田大学のオープンコースで日本語教育の勉強などしてみた。日本語教師になろうと思って。
けれど、日本語教育能力検定試験には2度落ちて、3度目の勝負も落ちて 諦めた。
日本語は日本で生まれて気づかないうちに喋れるようになって、普段ちゃんと世間とコミュニケーションもとれているのに、外国の方に教えるとなると、かなり難しい言語なのだ。
うちの本棚の隅に残っていた日本語教育能力検定試験、傾向と対策などという本をちょっとめくってみたら、かなり勉強した後が残っているのだけれど、
なんとも、むずかしい。
言語学的に日本語を勉強するとなるとただ日本人というだけではとっても足りない。ヒアリングなどはかなりチンプンカンプンだった。英語のヒアリングもあまり得意でない。
耳から入ってくる音を言葉として理解するのには大変な努力と聞き取り訓練がいるのだ。
わたしのアメリカ人の夫も
わたしと娘が日本語で話しているのを聞いていて トンチンカンなことを言って会話に参加してくる
私たちの会話を50%も理解できていない
これはヒアリングができていないからなのだ。
わたしと娘は必死に笑いをこらえて 彼の並々ならない努力を認めてあげるのだ。
1990年代バブル好調期の日本では、巨大資本を持った商社が那須の山を崩してスキー場を作るという計画を練っていた。
昭和天皇にも負けないくらいこよなく那須の自然を愛するわたしは親しい友人や那須の文化人、黒磯市の著名な政治家と共に立ち上がった。
「那須の自然を壊してはいけない」かくして
「那須の自然を守る会」ができ わたしも
わたしにできることをやった。
スキー場ができるという場所は国が定めてずっと守ってきた「水源涵養保安林」なのだ。
那須の水源涵養保安林はブナやミズナラなどの大木が深く根を張って急な斜面の土砂を抱え込んで、降った雨をすっぽりと吸い込み、たっぷりとたたえて、やがてこの水は清水や清流となってゆっくりと那須野が原を潤すのだ。
土砂崩れを防ぎ、農地用水として戦後の那須野が原の発展を支えてきた山であり森なのだ。
それを崩すと言うのだ。木を切り倒してスキー場を作ると。
現在のマウントジーンズがそれだ。
わたしは1998年に起きた余笹川の水害はマウントジーンズのために木を切り山を崩したためだと思っている。
論文を見つけた。
京都大学防災研究所の上野哲夫教授が防災的、科学的見地から22ページにも及ぶ論文を書かれているが、国が水源涵養保安林の山を売っぱらって、リゾート会社が山を崩してスキー場にしたことには全く触れていない。
この「那須の自然を守る会」の活動でわたしが悟ったことがあった。
「主婦」の意見など誰も聞いてくれない
ということだ。
それで環境科学や環境保護の勉強がしたいと思ったのだが、
日本ではとても大学へなど入れない。当時環境関係の学部があったのは北海道大学だけで入学試験に受からないと入れない日本の教育システムではわたしにはとっても無理。
若い人たちが青春の2、3年を費やして受験勉強してやっと入れる大学へなど。
ドイツへの留学も考えた。ドイツでは大学教育は外国人にも門戸が開いていて、しかも無料で教育が受けられると聞いたからだ。だけどわたしはドイツ語は喋れない。それに12 歳になったばかりの娘と6歳の犬と、ドイツ語も話せないシングルマザーの身ではドイツはあまりにも無茶な話。
やはり、アメリカ。
アメリカに留学したのは日本ではとても大学になどいけるはずもなかったから。
ラッキーなことに わたしはまだアメリカのグリーンカードを持っていた。
幸い1980年代のグリーンカードには期限切れがない。
1982年の最初の渡米から4年後の1986年には最初の夫(日本人)がタイル職人だったので、 グリーンカードはすぐ取れた。
当時ニューヨークでは、たとえ素人でも日本人というだけで大工や左官、車の修理など、仕事はいくらでもあった。日本人は器用で真面目だから。
1986年に取れたグリーンカードには有効期限切れというものがなかった。
日本に帰国して6年が経っていたけれどグリーンカードがまだある。
わたしはアメリカ大使館に掛け合って、「娘にはぜひアメリカで教育を」などと訴えて、再入国の 許可をとった。
ただし条件つきで。
条件とは、 米国の社会福祉制度の恩恵(つまりはフード スタンプやメディケアなど)を3年以上は受けないこと。入国時に最低百万円(10k ドル) を所持することというものであった。
ふところに百万円を持ち娘と犬のケンケンを伴って、忘れもしない、7 月 7 日、七夕の日、ロス経由でわたしたちはワシントン州にあるシータ ック空港に降り立った。
目標はオリンピア市にあるエヴァグリーン大学で環境科学の勉強をすること。
この大学は以前、「発展途上国 における女性と環境」というコースを聴講させてもらったアジア学院勤務のアメリカ人の 先生から教えてもらった。
「かなりリベラルな ことで有名で、環境問題ならここが一番」と 勧められて、迷わず決めたのだった。
州立大学のエヴァグリーン大学には地元に 1 年間住めば、 ワシントン州の住民としての学費で入れることが判り、1 年間待つことに。この頃住民としての学費が確か、年間約30万円だった。30万ならなんとかなるだろう。
エヴァグリーン大学のあるオリンピアはとても静かで安全な街と先生から聞いていたので、 娘を通わせる中学校の近くにアパートを見つけた。
やっと落ち着いたワンベッドルームのアパート、ターゲット(アメリカのどこにでもあるデパート)で買った安物のテーブルと椅子でカップラーメンを食べた最初の夜のことを娘が今でも覚えている。
百万円の所持金とフードスタンプのお世話になりながら職探し。
木々の葉が色づきはじめた 11 月も半ば、ある会社の輸出入コーデ ィネーターとして仕事が決まり、クリスマスを暖かく過ごせることになった。
シアトルの南に位置するオリンピア市は、冬は寒くなく、夏は暑くなく、とても過ごしやい。州都ということもあって、程良く文化施設も整っていて、小さいけれどアジア系の食品店もあ り、それからの 6 年間、わたしたちは快適に暮らすことができた。
とはいっても、娘にと っては大変な時期がしばらく続く。アメリカで生まれたとはいえ、6歳で帰国し、お漬物が大好きで日本語も達者になり、すっかり日本の生活になじんだところで、また渡米。ということで、英語はネイティブのようにはいかなかった。
セブンスグレード(中学 1 年) の半年間は第二外国語としての英語クラスに 入れられてベトナムやラオス、タイなどのクラスメートたちと英語を習わなければならず、日本人は彼女一人だけだったので、かなり寂しい思いをしたらしい。
クラスメートがみんなそれぞれの母国語で喋っているなか、ひとり黙々と勉強したんだろう。
当時ワシントン州では東南アジアからの難民の受け入れが盛んで、彼女が通った中学校の4分の 1くらいの学生がアジア系だった。
わたしはタイピングができたので職業安定所のようなところへ行ってどのくらい早くタイプできるかとかのテストを受けて職探しの登録をした。
この辺りのことは
1 年後、無事にワシントン州の住民 としてエヴァグリーン大学に入学、パートタ イムで環境とエネルギーというコースをとっ て環境アセスメントや老朽化のすすむ水力発電ダム問題、シアン化物に汚染された金鉱山周辺の環境問題、またバイオガスや燃料電池などの代替エネルギーについて学んだ。次の年には仕事を辞め、ついにフルタイムの学生になった。
この年、「マター アンド モー ション(Matter & Motion)」という物理と化学が一緒になって、根本的に物の理を熱力学やニュートン力学を通して網羅しようというコースで、わたしは熱力学に恋してしまう。
エネルギーはまるで水のように 高いところから、低いところへと流れる。
そして生物の生命活動はなぜか、この高きから低きへという法則に逆らって 秩序を構築している。
なんてことに思いを馳せるとワクワクした。
その後、実験プロ ジェクトで熱力学と電気を利用して水をつくる装置を開発。しかし、水をつくるというよ りは除湿機になってしまった。
エヴァグリーン大学はいろいろな面でユニー クな大学である。まず、点数制の評価システムを持たない。評価法はナレイティブ エヴ ァリュエーション(narrative evaluation) と呼ばれ、自分による自身の評価レポートと、 教授による評価を加えたものを最終評価とする。
点数やアルファベット1文字で表される評価と違って、その評価には結果や達成した事柄だけではなく、どうやって学んだか、何を学んだか、
何を苦労したかなどの過程が盛り込まれ、また 教授の心証も著わされる。
学科コースはすべて学際式(Interdisciplinary)で、2 つ以上の学問を合わせて 1 つのコースができており、総合的な学問が学べるようになっている。
さらに、エヴァグリーンは超リベラルなことで有名で、わたしの卒業式のスピーチは漫画シンプソンの作者マット・グローニン グが行ったが、なんと前年のスピーチは、牢獄から死刑囚であるムミア・アブ・ハマル(アフリカン・アメリカン)が 卒業生に向かって人類の平等を訴えるというもので、正否両論、大変な卒業式になった。 アブ・ハマルは政治運動家で、ラジオジャー ナリストでもあったが、1981 年に起きた警察官の殺人傷害事件の犯人として有罪死刑判決 を受けた。その後、2001 年に死刑判決は破棄されたものの、いまなお投獄の身にあり冤罪ではないかとされているが、まだはっきり していないのが実情である。アメリカでは白人警官による黒人少年の殺害、またその逆の事件などが多数起きていて、アメリカの人種による分断はさらに激しさをましている。
人類の平等は遠い夢のようである。
さて、わたしのこと。
文化多様性奨学金とい うのがあって、それを無事に2年間いただいて、連邦政府が出してくれるグラント(補助金)や学生ローンで生活も安定し、フードスタンプは 1 年半お世話になっただけで、つましいけれど、 親子二人と犬 1 匹、なんとか生活できた。
クリントン政権の時代であったこともあり、ワ ークスタディといって、将来仕事につながるような勉強にはお金をくれた時代だった。 地球科学とエネルギー(Energy and Earth) というコースを取ったとき、ズィータ(Zita) 博士に出会う。
この出会いがわたしを環境問題からさらに物理の奥深く、謎めいた世界へと誘ってしまった。ズィータ 博士の出す問題は面白いものばかりで、 夏の空にうかぶ積乱雲からエネルギーを抽出 するための式を考えたり、海の波の力で発電する仕組みを考えたり。
高校の時、数学で赤点(30点以下)しかとったことのないわたしにとって、数学は使える面白い道具となり、「科学的な物の考え方」を学んだ。その後、天文とコスモロジーというコースで特殊・一般相対性理論、宇宙論と学んで、科学の面白さにのめりこんだ。
この時、1996年、火星隕石に生命の化石が発見されたという報道があり、大統領のクリントンが「火星に生命の痕跡発見」という声明を発表し、科学会は大騒ぎに。
エヴァグリーンにはインディペンデントコー スというのがある。これは自分でカリキュラムプランを立て、サポートしてくれる教授さえ見つかれば手前勝手なコースを作れるというこで、さっそくわたしは、電子顕微鏡の訓練と微生物学を学べるコースを立案し、サポートしてくれる教授もゲットして、アストロバイオロジー・ ア・ラ・アダチと言うコースを発足。
アストロバイオロジーとはつまり、宇宙生物学、これまでエクソバイオロジー(地球外生物学)と呼ばれてきた分野が新たに名前を変えてアストロバイオロジーとなったのだった。
微生物学では生物学の基本も学び、バクテリアの培養、乾燥、保存法ならびに電子顕微鏡による観察なども網羅した。
もちろんテストや宿題はあったけれど、プレゼンテーション(発表)とディスカッション(討論)を重視したコースワークと少人数 (25 名)のクラス編成で、学期末には必ずパワーポイントかポスターでのプレゼンテーション(発表)を行い、研究者としてやっていくための、あるいは人生の達人となるための訓練を受けた。
さて、卒業して大学院に進むのだが、それは また第2部で。