旅する女のラプソディー

20代をニューヨークで生き、離婚して帰国、環境問題に目覚めたシングルマザーの子連れアメリカ留学。40歳で大学卒業、45歳で大学院卒業、55歳で妊娠、出産。科学を愛し、旅をつづける女の半生、高齢出産やナサ(NASA)での仕事、アメリカ暮らしのあれこれなど、など

風つうしん 復活

 

今から25年前の1995年7月、七夕の日に日本を出た。

13歳の娘と私、そして犬のケンケンを連れて再びアメリカへ。

環境学の勉強をしにワシントン州オリンピア市にある州立のエヴァグリーン大学に入るため。*1

オリンピア市はワシントン州のキャピタル(首都)で太平洋に面した静かな街。パシフィックノースウエストに位置するワシントン州シアトル市から車で1時間ほどの南に下ったピュージェット湾の一番奥にある街。秋になれば鮭も上がってくる。

 

直行便でシアトルまでのはずがアニマルカーゴの空調が効かないということで変更になったフライトはロス経由で、

このロスでの乗り換えは大変だった。国際線から国内線への移動は空港の外。

ロスの太陽が容赦無く照りつけるコンクリートの通路とも言えないビルの傍をスーツケースや段ボール箱、そしてケンケンの大きなクレートを積んだカートを押して歩いた。娘がとても不安そうだったのを覚えている。

 

無事シアトルに到着そこから車で南に1時間ほどのオリンピア市で暮らし始めた。

私はその近況を一枚のリーガル紙に「風通信」と題して日本の友人や恩師に送っていた。1、2ヶ月に一度、リーガル紙いっぱいに、

無事アパートに落ち着きました。仕事探し中です、

なかなか仕事見つかりません、とか。

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無事アパートも見つかって落ち着いた日。

近くにあるターゲット(ディスカウント・デパートメントストア)で安い折りたたみ式のテーブルやイスを買って食器などは全部グッドウィルというセカンドハンドのお店で揃えた。

犬のケンケンはこの時6歳(犬の年齢だとすでに中年)

なんとお行儀の良い犬なんでしょう。

娘が何かおやつでもお皿にもるのをちゃんと待っています。

八月末に、中学生の娘はアパートから歩いていける中学校に入学。当時ワシントン州ベトナムラオスなど東南アジアからの難民を受け入れており、アジア人はたくさんいたけれど中学校に日本人は彼女一人。

ベトナム人ラオス人に混じって第二外国語ESL)としての英語クラスで英語の習得が始まった。ニューヨークで生まれたとは言っても6歳で日本に帰国してからは私が友人と開いた英語塾でちまちまと習っただけだから、かなり忘れてしまっていただろう。

クラスメートがみんな母国語で喋ってばかりいる中で彼女は一人頑張っていた。

離婚してニューヨークから日本の実家に帰った時も彼女はきっと大変だったに違いない。小学校から泣いて帰ってきたこともあった。この時はクラスのみんなの日本語がすぐには聞き取れなかっただろうし。

マンハッタンのイーストヴィレッジにあったデイケアで一番活発でおてんばだった娘は田舎の小学校でだんだんシュンとしていったのかもしれない。*2

当時の私にはそれを思いやる余裕がなかったのだろうか。「泣くんじゃない」と逆に叱咤したように覚えている。当時の日本、しかも田舎では子連れの出戻り、シングルマザーにはまだまだ居場所がなかった。

それでもだんだん友人もできて、いろんな人たちに助けていただき、シングルマザーの生活は落ち着いていった。娘のクラスメートの親でもあった工務店の友人と、高校時代の友人に助けられて塾を開こうということになった。高校時代の友人が数学を担当し、私が英語を担当するということになり、小さいけどとても立派な8畳ぐらいの塾を工務店で建ててくれた。トイレ付きで窓がたくさんあり、六人ぐらいが楽に座れるテーブルとホワイトボードも用意してくれた。工務店の友人には不義理をしてきており、機会があったらぜひ一言お詫びと感謝の気持ちを伝えたいと思っているのだが、あれから25年もたった今、行方が掴めない。

当時、私は若かったとはいえ、今になって人の恩というものが、身にしみる。

那須高原教会の牧師夫妻にも本当にお世話になった。このことはまたあとで詳しく書きたい。

だから、風通信はこの那須高原教会と幾人かの親しい友人に向けて発していた。*3

 

オリンピア市に落ち着いて4ヶ月後、私は無事仕事を見つけた。

幸運にも新聞の求人広告に「輸出入(Import/Export)コーディネーター募集、サイツ・ジャパン(Sight Japan, Co, Ltd)」とある。これは当然、日本語が話せたらゼッタイいけるだろう。

早速、面接。

車で15分もしない隣町の普通の家、事務所というのはボスのオフィス。ボスの名前がもう思い出せない。思い出せるのは彼はネパールで20年ぐらい宣教師をしてきて引退してアメリカに帰ってきたことぐらい。ネパールで宣教と聞いてとても親しみを感じたのを覚えている。私も1989年にネパールに旅をしている。

即採用が決まって、次の日からコスコ(日本ではコストコというらしい)やサムズクラブ(ウォルマート)などの大型ディスカウントショップで商品リサーチが始まった。

それからしばらくして日本からのバイヤーの案内、商談の通訳、輸出入コーディネーターとしての仕事が始まった。

シカゴの国際トレーディング・ショーなどにも出張し、仕事は楽しかった。

当時日本はバブル好調期でバイヤーはしょっちゅうやってきた。私も一度日本の本社に呼んでいただいて、山形の当時ジョイ(JOY)と言っていたホームーセンターの見学などをして、社長や部長などとカラオケなどに行って楽しんだ。実はこの社長もネパールで宣教師として働いていたらしい。もちろん、ちゃんと仕事もした。日本にあってアメリカにないもの、あるいはアメリカにあって日本にないものなど、売れ筋や確実商品などの調査。

当時、木酢液というのがまだ炭焼きの盛んなアジアのどこかの国から日本に入り始めていた。木酢液は炭を焼いた時などに抽出できるエキスで土壌の改良や防虫剤として効果がある。当時はまだアメリカにはなかったと思う。インターネットが今ほど普及していなかったころ。

*4

次の年の秋、私は無事大学に入学した。仕事をパートタイムにして。

エヴァグリーン大学はトライメスターという学期制になっていて春、秋、冬学期、そしてサマーコースもあった。確か冬学期を終えたころ、奨学金が入るようになって仕事はやめたように覚えている。

 

これから、またこの通信を復活できたらいいなと。

今度は見も知らぬ人たちにも向けて。

何か発信できたら、と。

 

 

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*1:大学入学などについてはいずれまた「子連れ留学珍道中」で

*2:娘は現在三児の母となりNPOを立ち上げて代表を勤めている - NPOCollaborative Cataloging Japan:

https://www.collabjapan.org/

*3:那須高原

那須高原教会|クリスチャン情報ブックWEB

*4:サイツジャパンとは当時の株式会社JOYの子会社:

ジョイ (ホームセンター) - Wikipedia